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【CCRCインタビュー】 駒村圭吾法学部教授 「主権者を疑う—統治の主役は誰なのか?」

憲法に記された主権者の存在

 

日本の憲法が改正されたことがない憲法として世界一の長寿であることをご存じだろうか。1946年に制定された日本国憲法は今年で77年目を迎える。その日本国憲法には二つの大きな特徴がある。ひとつは今述べたように、未だ改正されていない長寿であること。もうひとつは、条文数が少なく、個々の条文の文言も短いことだ。
前者について言うと、この憲法を変えようとする議論は制定直後から度々繰り広げられてきたが、結果として一度も改憲には至らなかった。憲法96条によれば、改憲を行うには①改憲案を衆参両院における3分の2以上の多数決で発議し、②これを国民投票にかけ過半数の賛成を得る必要がある、とされている。このハードルは世界標準であり、世に言われるほど高いものではない。にもかかわらず現在まで改憲がなされてこなかったのはなぜなのか。
また、後者について言うと日本国憲法は文言が短く、大原則だけが定められており、具体的なことは法律その他で定めるとされている。そのため、憲法の条文の「解釈」が決め手となり、解釈の幅がことあるごとに議論されてきた。その最たるものが9条をめぐる国論を二分する議論だが、これに関しては故安倍元首相が精力的に9条をめぐる改憲運動に取り組んできたのが記憶に新しいだろう。その中で安倍元首相が度々口にしてきた言葉がある。
「最終的に決めるのは主権者である国民の皆様です」
この言葉を聞いて、自分たちが主権者であることを、突然水をかけられたようにはっと思い知らされた人は少なくないのでないか。しかし、安倍元首相に言われるまでもなく、そもそも憲法の前文にははっきりと主権が国民にあることが明記されている。では主権とは何なのか。本当に国民は主権者であるのか。
そう問いかけるのが今年2023年4月に『主権者を疑う—統治の主役は誰なのか?』(ちくま新書)と題する著書を出版した駒村圭吾法学部教授だ。
憲法学に足を踏み入れた時から、主権というものがいかに取扱い注意なものかを認識していた駒村教授にとって安倍元首相のこの発言は、それまで抱いていた主権に対する疑問と対峙するきっかけとなった。駒村教授は、行間に隙間の多い日本の憲法を、その時その時の解釈で補完してきた統治の営みを、憲法改正で一気に固定化しようとする状況に危機感を抱く。そして、主権者どころか「有権者」、「市民」としての自覚も危うい国民を、主権者として政治の舞台に安易に呼び出すことは避けるべきと説く。元々は神が有していた主権が、国民主権に至るまでの流れを振り返りながら、主権の概念を掘り下げ、これからの新たな民主制のあり方を本書で提示された駒村教授に今回お話を伺った。

 

 

舞台に召喚された主権者国民
(聞き手:鈴木)
まず、今回「主権者を疑う」というテーマで本書を書かれるに至った経緯をお聞かせいただけますか。
(駒村教授)
直接のきっかけは2015年頃から始まった安全保障法制論議を経て本格化した、安倍元首相からの改憲提案でした。当時安倍元首相は、「憲法改正こそが戦後政治からの脱却につながる」ということをスローガンとして掲げていました。そしてこの改憲に向けた動きの中で安倍元首相は、「最後に決めるのは主権者である国民の皆様です」と繰り返し口にしていたように、一部の政治指導者が国民に隠れてコソコソ進めるのではなく、国民を「皆様が主権者であり主役です」と持ち上げ、最終的に主権者国民からお墨付きをもらえれば、それまでのプロセスがどうであれ、万事すっきりすると考えていたようです。
この「主役なのに出番は最後だけ」という言い方に強い疑問を抱きました。国民も一緒になって考えていくことや、国民からも提案を募ることは、端から考えられておらず、国民を主役と持ち上げながらも出番は最後だけで、それまでは静かに寝ていてほしいという印象が拭えませんでした。その違和感から、では主権者とは何であろうと考え始めたのがきっかけでした。
また、法学部で憲法を学ぶと、主権には二つの側面があることを知ります。それは、「統治のあり方を最終的に決める権力」と「権力の行使に対して正統性を与える権威」のふたつです。その権力と権威を、国民が保有するというプロジェクトが、「国民主権」です。しかし、自分を含め周りを見渡しても、この国のあり方についてまっとうな関心を持っている人は果たしているのか、最終的な判断が下せる識見やオーラを持った人はいるのかと、誰しも自問自答するでしょう。そう考えると、憲法学が説いてきた主権の概念には、何となく胡散臭さやごまかしがあるような気がしてなりませんでした。この疑問はかねがね学部生の頃から一貫して抱いていましたが、この際改めてきちんと考えてみようと思い、執筆に至りました。

 

 

幾度も改憲の波にさらされてきた日本国憲法
(鈴木)
安倍元首相による改憲提案が、執筆のきっかけだったとのことですが、日本国憲法はまだ一度も改正されていません。それは私たち国民が、主権者であるにも関わらず政治に対して積極的な関心を持たず、主権者として怠惰であったからなのか、それとも他の理由があるのでしょうか。
(駒村教授)
それにはいくつかの見方ができます。一つには、国民が怠惰であったからではなく、国民がむしろ果敢に改憲の波を押さえ込んだとみることができます。実は改憲に向けた動きは、憲法制定の直後の1950年代、2000年代初頭の小泉政権下での動き、2012年の自民党改憲草案の公表、2015年以降の安倍元首相による改憲提案とこれまで度々ありましたが、どれも結局改憲には至りませんでした。つまり国民は、「改憲をしませんか」という呼びかけに何度か招き入れられたが一貫して拒否し続けた、つまり改憲の波を国民自身が押さえ込んだと見ることができます。
もう一つの見方としては、日本では改憲をしても政治は変わらないという諦めに近い状況が、とうの昔からすでに出来上がりつつあるというものです。憲法9条には戦争はもう二度としないと書いてありますが、自衛隊という実質的に見れば戦力としか言いようのない実力組織があります。そう考えると実は憲法は、とっくの昔にすでに死文化しており、そうであるならば、憲法条文を変える・変えないはおよそ問題にならず、戦後政治は長きにわたり憲法を骨抜きにし、無意味化してきたと見ることもできます。このようにポジティブな見方もネガティブな見方もできます。
(鈴木)
改憲には衆参両院での3分の2以上の可決による発議の後に、国民による多数決(国民投票)が必要です。未だ、国民投票で可決されたことがないのでしょうか。それとも前段階の、衆参両院での3分の2以上の可決になったことが未だないのでしょうか。
(駒村教授)
衆参両院で発議をする段階に至ったことがありません。政権側で、憲法改正に向けて動き始めましょうと呼びかけても、世論が思ったほど盛り上がらず、野党はもちろん与党も追随せず鎮静化するという流れを繰り返してきました。それをポジティブに見れば、国民は主権者として怠けていたわけでなく、憲法を変える必要はないという黙示的な抵抗をしてきたと言えます。主権者国民は現憲法を守ってきたとも言えるでしょう。私はそちらの見方を採りたいと思いますが、両者の見方が成立するのが日本の憲法と政治の特殊性です。
(鈴木)
後者の「憲法はすでに死文化している」というのは、日本国憲法は条文一つ取ってもあらゆる解釈が可能であり、その時代の政権トップにとって都合のいい様に解釈されてきたということでしょうか。
(駒村教授)
日本国憲法は世界の他の憲法と比較しても、条文数が極めて少ないため、条文が政治を規律する度合いが弱いのが特徴です。そのため、解釈によって中身を具体化する必要があり、解釈が憲法運用の決め手になる構造を持っています。
その構造の中で解釈が勝手気ままになされるようになってしまい、戦争は放棄すると書かれているのに、戦争ができる組織があることについて、どう理解すればいいのかが長年問題になってきました。このような事態を、憲法条文はそのままで憲法の中身をご都合主義に変えていると見るのであれば、日本国憲法は死文化しているという見方もできます
(鈴木)
前者の「国民が現憲法で問題はなく、改憲する必要はないと判断し、改憲の波を押し返してきた」の見方について、投票率の低さや改憲ムーブメントの際も国民側では盛り上がりに欠けていた状況を考えると、国民が政治に対してあまり関心を寄せてこなかったこと、つまり主権者として怠慢であり主権者として真面目でなかったことも、改憲がなされなかった要因として考えられると思うのですが。
(駒村教授)
確かにそれも要因かもしれませんが、そうであるからこそ、改憲に向けた動きを本格的に行ったとしても、おそらく良い改正にはならないでしょう。国民が意識的あるいは思想的に改憲に対して拒否をしてきたから、憲法は一度も改正されてこなかったのか、それとも憲法や改憲に対する国民の関心が低かったからなのか。ただ、自民党などの改憲賛成派は改憲できるだけの勢力をある時期持っていましたが、それでも改憲を実現できなかったのは、単に国民が無関心だったからという理由だけでは説明しきれないと思います。
改憲が一度もなされてこなかった要因にはいくつかの見方があり、どれと断定はできませんが、本書で書きたかった中心論点はまさにその「主権者としての国民のあり方」の部分です。主権者であるにも拘わらず日頃から政治に無関心なままで、さぁいよいよ主権者の出番なので改憲をしましょうと言ってもまともな判断はできないでしょう。
さらに言えば、「改憲」することの意義が理解できていなければ、改憲の効果も生まれず、条文を変えただけで現状の統治が平然と続くだけということも考えられます。私は本書で、国民には三つの仮面があると述べています。それは「主権者」、「有権者」、「市民」としての仮面で、そのいずれの役柄においても尊重される共通のステータスとして「個人」があり、それぞれ根拠となる条文が憲法には配置されています。主権者国民は改憲という最も重大な権利を行使する以前に、選挙では選挙権を持つ有権者として頑張る必要があり、選挙以外では公共形成のための市民として日頃から頑張る必要があります。一足飛びに「主権者」だけを演じることはできません。

 

(出典:駒村圭吾著『主権者を疑う』筑摩書房刊、帯より)
有権者としても市民としても寝ぼけたまま、改憲の最終局面の時だけ、さぁ主権者の出番だと目覚め、権力側の提案した改憲案に寝ぼけまなこで投票することになりそうな状況に対して強い危機感を抱きました。
憲法学では主権者である国民が最高かつ最終の絶対的な決定を下すとされていますが、決定の最高性や絶対性を何が担保してくれるのでしょうか。国民主権を採用する以上、国民が本当に主権的判断を行い得る者かどうかを疑う必要があるでしょう。主権論が成立するには主権者を常に疑う姿勢が欠かせません。最後に主権者国民の判断にゆだねることは賭けに出ることでもあるのですから、少なくとも疑ってみてから賭けに出る必要があります。
(鈴木)
今の日本でもし国民投票がなされた場合、そこで可決された改憲内容を、司法や他の機関が覆すことはできないのでしょうか。
(駒村教授)
現行制度ではそれはできません。ただ、主権者の行使する改正権にも限界があります。憲法を制定した主権者が、自信作であるはずの憲法をどうにでもいじくることができるはずがありません。現行憲法の基本原理を破壊する憲法改正は「改正」ではなく、「革命」と評価するのが法の論理です。いずれにせよ、国民投票で可決された改憲内容に対して、従来の憲法と照らし合わせた際に違憲ではないかと指摘できる機関が必要と考えます。主権論成立の前提として主権者を疑う以上、主権者の判断に対して疑義を呈せる機関がないといけません。主権者が誤った判断をする可能性があるにも拘わらず、国民がウンと言えばそれで決まり、とする今の仕組みに強い懸念があり、それが本書で伝えたかったことの一つです。

 

 

まずは見知らぬ人と出会い共に歩いてみる
(鈴木)
憲法の中に主権者を疑う要素を持たせながらも、一方で国民は有権者、市民としての役割を果たし、いつか来るかもしれない主権者として重要な場面で、正しい判断ができるようにしておく必要があるということですね。憲法12条にある、市民として果たすべき「不断の努力」には、日頃から政治に関心を持ち、市民同士で考え、話し合うことも含まれていると見ていいでしょうか。
(駒村教授)
それも確かですが、市民にまず求められる努力というのは、どこかの政党に入党することや、憲法条文をよく理解するといったことではなく、「見知らぬ人たちと共に歩くこと」だと思っています。気心が知れた仲間内や自分の気に入ったサークル内で、好きなように生きていくことも大事ですが、市民であるためには、隣の見知らぬ人や遠く離れた所にいる出会ったこともないような人たちと一緒に何かをすることが必要と考えています。
(鈴木)
「政治家は、国民が政治や社会の課題について話し合える場や機会を作るかについて議論すべき」とも書かれていましたが、そういった場や機会を創出するべく、国民側が自発的に見知らぬ人とも一致団結し、政府側に呼びかけていくことも必要でしょうか。
(駒村教授)
必要だと思います。改憲に関しても、改憲に向けた議論を国民と共にいかに推進していけるプラットフォームを政治家には提案してほしいところですが、政府側から提案するだけではなく、国民側からもそうした議論プラットフォームを作る努力はできるはずです。明治憲法を作った時も日本国憲法を作った時も、民間の中から様々な提案が出てきた歴史があります。しかし今はそういった動きはなく、政治への市民の関与が非常に小さいです。
ただ、そういった党派性が強い政治活動をする前に、市民として隣人や見知らぬ他者と共に動くトレーニングをした方がいいと思います。政治における最重要課題は憲法改正なので、それに対し市民が積極的に関わることは重要ですが、手始めとして市民運動から始めてみることを推奨します。それは市民生活レベルのもので、例えば町おこしをするにはどうしたらいいだろう、お祭りを開催してみよう、地域で取り残されている子どもたちに対してなにかできないだろうか、そういった身近な場所でできる活動です。
アジェンダに関係なく、ウォーキングとしてデモを楽しんではどうでしょうか。自分が選んだ相手ではなく、たまたまそこに集った人たちと行う交流や活動です。本書ではデモの重要性にも触れていますが、デモでは隣にいる人がどこの誰かわからなくても同じアジェンダのもと、並んで歩きます。デモは名刺交換から始まるものではありません。公共性とはそういうもので、公共に関わる訓練になります。見知らぬ人とまずは一緒に歩いてみる、それが出発点となり、見知らぬ人たちとの連帯感が身に付いてくるわけです。それが市民としての一歩で、そういった活動を自分たちの日常に組み込むことを提案しています。
(鈴木)
日本国民は市民や有権者としての自覚が低いと思われますか。
(駒村教授)
それは簡単には答えられません。その種の話は結局のところ、主観的な印象論になるか、あるいは投票率など、特定の政治的コミットメントに特化したデータを使った平均値の話になるからです。子ども食堂を手伝っている方たちや、身寄りのない子どもを一時的に保護する施設で働く方たち、そこに寄付をする方たち、例を挙げればきりがありませんが、市民的連帯を結んでいる人たちは実は沢山います。そういった細かい事例を、メディアは一つ一つ取り上げ、皆で共有するべきでしょう。その結果として大きな動きが起きることを期待するしかありません。
細かく見ずに、平均的な動きだけを主観的に見て展望を述べることは、適切でありません。平均的行動として市民の活動を考えるのではなく、あの人がこんなことをやっている、こういう人たちもいるんだ、といった現実の個別事例を見たことでの気づきの中から、内発的なきっかけは生まれてくると思うので、人の心を動かすような個々の事例を拾っていくことが必要でしょう。

 

 

間接民主制を補完する直接民主制の提案
(鈴木)
日本の選挙制度の問題点、特に一人一票制の問題についても書かれていますが、こちらについて教えていただけますか。
(駒村教授)
一人一票制のもとでは、どんな人も一票を持ちます。人それぞれ、様々な悩みや事情を抱えており、複雑な差異を持っています。しかし一人一票制はそれをすべて削り込み、どんな人にも一票しか与えない仕組みです。国民の意見を集約して議席に反映するのが選挙ですが、多様で複雑な差異を刈り込んで「一票」に変換するこのフォーマットでやり続ける以上、選挙によって反映される民意には限界があると認識しておくべきでしょう。
選挙以外の方法で、民意を示すやり方は他にもいろいろあります。投票ではありますが直接民主制的な要素を持つ住民投票、住民自ら政策等を提案する住民発案、あるいは先に述べた改憲のための議論プラットフォームなども実現すればそれに該当します。選挙だけが民主主義を支えているのではないことを認めて、それ以外の回路もいくつも作り出し、新たな統治のあり方を皆で考えていく必要があります。
(鈴木)
その一つとして「民間法制局」のアイディアを提案されていらっしゃいますよね。こちらについて教えていただけますか。
(駒村教授)
法制局というものが衆議院・参議院そして内閣にそれぞれ一つずつあります。そこでは法律を作るプロの人たちが、丹念に法律案を作成しています。しかし、議院や内閣に付属している機関であるため、政治の都合が介入してしまうことが否めません。また、国会もしくは内閣の方で法案化の動きがない限り、これらの法制局は基本的には動きません。
しかし民間の方でも、「この法律のこの部分を変えれば良くなるのではないか」「こういった法律があればより良く社会が回るのではないか」といったアイディアはあるはずで、法案策定を国が独占するのではなく、民間からもアイディアを提出できる機関として、民間法制局なるものを提案しました。
新しい法律や政策のアイディアを持ち込んできた市民に対して、法制局を辞めた人や法律や政策に詳しい専門家、あるいは議員の政策秘書らが知恵を出し合い、法案の形に落とし込むサポートを行い、国会議員や地方議会議員に働きかけて、法律や条例として成立させるという仕組み、と言いますか運動です。
今の法制局を批判しているわけではなく、民間の人が法律を提案して国会議員に働きかけ、賛同した議員に法案実現に向けて動いてもらう、これも民主的回路の一つではないかと考えています。法案形成をするにあたって必要な様々なデータベースをオンラインで活用できるようにしている仕組みを、シビックテック(注1)の一つとして取り入れている国が海外にはいくつかあるので、その取り組みも参考にできます。国民からの法律・政策の発案が可能な回路を整備することは、間接民主制の中で直接民主的な仕組みを活用することであり、アイディアは色々考えられるでしょう。こうした動きは海外でも多くの実例があります。
(鈴木)
本書では国民発案の事例としてスイスでの出来事を紹介されていましたよね。
(駒村教授)
はい、スイスでは2004年に、性犯罪者の永久拘束を可能にする憲法改正の国民発案がなされ、国民投票が行われ可決されました。これは被害者の家族が自宅を事務所にして始めた運動で、徐々に共鳴してくれる人や支援者が増えてきて、最終的に国民投票まで漕ぎつけ、憲法改正を実現させた事例です。すぐに実現したのではなく、国民発案に必要な発議権の獲得から4年を経ての国民投票実施でしたので、経年に渡る努力が必要でしたが、このようなブレイクスルーできた経験を市民社会が得ることは、意味のあることと思います。
(鈴木)
今の日本では「こういった法が必要だ」と国民が思っても、そのような公約を掲げている国会議員に投票する方法しかないのでしょうか。
(駒村教授)
そうです。ただ、日本では国レベルでの国民発案はできませんが、地方自治体では条例の制定や改廃、監査請求など、住民側からの発案が制度化されています。
(鈴木)
スイスのような、国民からの発案で改憲にまで至るといった成功体験が日本国民にはないので、自分たちは主権者であるといった自覚が低いのでは、と思ったのですが。
(駒村教授)
日本でも1960年代の安保闘争で国会の前に数万人の人が集まり、当時の岸政権が倒れていった歴史があり、これはある意味で「成功体験」と言えると思います。ただ多くの負の遺産を生んだことは確かで、過激であったがために死者も出ました。
成功体験がないから駄目とは考えず、自分たちが動き出さない限り成功体験も失敗体験も生まれないので、まずは国を動かすレベルではなく、「志を同じくする自分の仲間と何かに取り組み、それが何かを動かした」という小さな経験を、失敗も含め積み重ねていくしかないと思います。

 

民主制に欠かせない対抗性
(鈴木)
衆参二院に代わるものとして、「計算院」と「熟議院」の二院、もしくは「計算部局」を付置した「熟議院」への一院化を提案されていましたが、こちらはどういったものでしょうか。
(駒村教授)
現状批判のために行ったあくまで一つの思考実験ですが、熟議院は理性的な討論をして政策や法案を練り上げていく場として機能させ、計算院の方はデータベースを駆使し、「これだけのリソースを投入すればこれだけの効果が出るだろう」と計算予測して、最適な政策を立てる機関として機能させるというものです。データそれ自体は平均値でしかないので、国民の実相を示すとは限りませんし、生成AIが人間の意識や考えを解読したとしても、それが真の民意かどうかはわかりませんが、計算院あるいは計算部局と熟議院とを対抗させることで、バランスを取りながら最適解に近づけるのではないかと考えました。
(鈴木)
「民主主義の中ではあらゆるところに対抗性を存在させるべき」と書かれていましたが、それは衆議院と参議院、与党と野党、与党内の派閥といった間での対抗性のことを指していると解釈しました。国民の間でも対抗性は必要と思われますか。
(駒村教授)
必要だと思います。対抗性が存在する状態では、自分のやりたいことを表明すると、それに対抗する意見が出てきますが、その壁を乗り越えるためのパワーが凝集し出し、権力の求心力が生まれます。「一強多弱」は対抗性がない分、実は、権力の求心力は生まれません。何も決められない一強権力が何もしないまま空転することになります。
また、分断ということがよく言われますが、対抗と分断は違い、分断は対抗をさせないために引き起こされるもので、対抗は試合の敵味方のように互いに競い合える関係性です。国民の中に分断ではなく対抗性を生み出すには、まず議題を立てる必要があり、その議題の下で勢力が形成・拮抗して対抗性が生まれます。それを具現化しているのが政党ですが、今はその議題の立て方が上手く機能しておらず、どこも同じようなことを主張していて明確な対抗性がありません。
これからの新たな市民活動のかたち
(鈴木)
今の日本の政治や制度を見ると、新しいことに挑戦するよりも、現状維持の流れの方がやや強い傾向を感じます。これは、議員を選ぶ有権者である国民に責任があるのでしょうか。
(駒村教授)
確かに国民にも責任があると思いますが、そう言ってしまうと結局、責任の所在は雲散霧消し、権力者にとって都合の良い状況が続くだけでしょう。とは言え、本書は国民に対するメッセージの意味合いを強くして書きました。何かやらないといけない現状において、制度がなくてもやれることは沢山あります。
勉強会や本格的な読書会といった地道な活動を通じて、評論という市民的営みを受け継ぐ人材を作ろうとしている人たちが何人もいます。法律家でも大手の事務所から離れた場所で、誰もお金の支援をしてくれないマージナルな問題をどうにかしようと、クラウドファンディングを使ってお金を集めて裁判所で戦っている人も沢山います。そういうことからまず始めて、次に制度を変えることに取り組むべきでしょう。
自分たちが考えていることを政治家や役人、地方自治体に伝えられる制度を作るためには議員に動いてもらわなくていけないので、「有権者」でもある私たちは、そのような権力者に働きかけないといけません。言論の場を作り、そこに知恵を出してくれる大学の専門家を呼び、さらに賛同してくれそうな国会議員や地方議員、知事や市長を呼び込み、そういったパワー・ホルダーたちと繋がる必要があります。政治家はみな汚い連中だと思うのではなく、真面目にやっている政治家もいるので、国民の声に耳を貸してくれる議員や知事、市長・区長と一人でも多く繋がり、味方につけていくしかないでしょう。異論を唱えるだけでなく、制度の側にいる人たちと繋がることが大切です。
(鈴木)
私たちは有権者として議員や市長・区長を選んでいるので、社会の中で困っていることや問題と思っていることを彼らに訴えることは可能なはずですよね。そのことを忘れていました。
(駒村教授)
選挙の際だけでなく、まず第一歩としては、自分が気になる社会の課題について、すでに取り組んでいる人たちや同志を探し、話し合い、情報交換をしてその課題に取り組む。それから、大学の教授、法律家、記事として取り上げてくれる記者、自由に動きやすい大学生といった様々な所属・階層の賛同者を味方につけていく。そうして、自治体の長や地方議員・国会議員に対して働きかけ、賛同してもらい動いてもらう。
そういった市民活動を意識すべきです。これまでの日本の市民運動は、政治とは袂を分かつことが市民運動の自律性を担保するという風潮がありましたが、これからの市民運動はそうではなく、政治の中にいながら共鳴してくれる人を探して、学術の専門家や法曹家、メディア関係者とも組み、様々なレベルの人たちを巻き込みながら進めていき、そこで勉強した人が国会議員になるのが理想形だと思います。
(鈴木)
時間と熱量をかけて作った提案書をハイと政治側に提出するのではなく、そこまでの過程において政治側の人を味方につけておき、提出後も実現しやすいよう地ならししておくということですね。主権者、有権者であることを自覚する前に、市民として有効な市民活動のあり方を伺い、目から鱗が落ちました。

 

 

多面性のある自分をどう捉え、民意をどう伝えるか
(駒村教授)
市民として公共問題を考えることはある意味で自由を手に入れることです。公共のために考え、活動することは、自分がどんな家庭の人間なのか、どんな友人や恋人と付き合っているのか、所属や肩書、学歴がどうであるかといった自分の属性とは関係なく人々と交流できることなので、その瞬間はある種の「自由」を得ているのです。
(鈴木)
公共のための市民活動を通して、政治をより身近に感じられるようになれば、有権者としての自覚や責任感を今よりも持てるようになる気がします。そうすれば、選挙の際に誰に投票しようか、公約が書かれた選挙新聞を片手に悶々と悩むこともなくなるでしょうか。
(駒村教授)
うーん、それは変わらないと思います。それは何故かと言うと一票しか持っていないからです。実は、政治を勉強すればするほど誰に一票を投じればいいか、わからなくなるものです。一票しかないがために、結局は悩んで妥協した候補者に投じることになるでしょう。それでも投票所へ行って一票を投じ、選挙結果を見守ることには意味があると思います。そこには見知らぬ他者がたくさんいますからね。
一方で、一人一票制を解体しようという動きも出てきています。本書の最後の方で鈴木健氏が提案している「分人民主主義」を紹介していますが、これは一票を分割するというユニークなアイディアです。一票を分割することで、逆に自分の中に潜在した多面性に気づき、その多様性を民意として示すことができます。自民党に0.3、立憲民主党に0.2、共産党に0.5といったように一票を分割して投じるということです。また、ここでは自分の一票を信頼できる有権者に託すこともできることが提案されています。
(鈴木)
その仕組みは興味深いと思いました。これはこれで悩みそうですが、一人一票制よりも納得度は増えて妥協度は減ると思います。デジタル化が急速に進む中で、こうした仕組みはハード的には実現可能と感じます。
(駒村教授)
デジタル技術は今後も急速に進んで行くため、従来の民主主義の統治システムも変わっていかざるを得ないでしょう。ただ、データとはあくまで量的に数値として可視化したものなので、データで真理が得られたように思えても、それはいろいろな差異を刈り込んだ平均値でしかなく一面的なもので、私たちの本当の意思を表すものではありません。そこで計算部局と、それに対抗する熟議院を提案しました。これだけでなく、間接民主制と直接民主制の組み合わせなど、対抗性を持った様々な取り合わせをして、これからの政治のあり方を考えていく必要があると思います。

 

(聞き手/文章 鈴木薫)
注1:シビックテック:市民自身がテクノロジーを活用して、行政サービスの問題や社会課題を解決する取り組みのこと

 

主権者を疑う―統治の主役は誰なのか?
著者名 駒村圭吾
出版日 2023年4月
出版社 筑摩書房

駒村圭吾教授Profile

1960年東京生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。白鷗大学教授、慶應義塾大学法学部・同大学院法務研究科助教授を経て、現在同大学法学部教授。法学博士。専攻は憲法学。ハーヴァード大学ライシャワー研究所・憲法改正研究プロジェクト諮問委員会委員。著書に『憲法訴訟の現代的転回』(日本評論社)、『ジャーナリズムの法理』(嵯峨野書院)、『権力分立の諸相』(南窓社)、共編著書に『立憲的改憲』(山尾志桜里編著、ちくま新書)、『「憲法改正」の比較政治学』(弘文堂)、『テクストとしての判決』(有斐閣)、『Liberty2.0』(弘文堂)など。